斜陽

ネガティヴ音大生の憂鬱

誰かとともに生きるということ

 

昨日は東京では珍しくたくさん雪が降って、今朝はまるで銀世界。

朝日が反射して目の奥まで刺さるようなこの感覚はどこか懐かしい。

地元では毎年1月ごろから2月まで雪がちらちらしていた。

地元で降る日は東京では降らない。

だから多分、東京で降ったのならあちらは晴れているんだろう。

 

私が上京したのは大学に入学した春。

もう何年かたつが、私は相変わらず私のままだ。

人と同じ人のはずなのにうまく生きられない、誰かと同じ時間を共有することに喜びを感じるものの、どこか窮屈に感じてしまう。

人と話しながらも相手を必要以上に細かく分析して見てしまうし、その上で自分より上か下かと考えてしまう。

下だと認識すればバカみたいに喋り倒すし、上だと認識すれば年齢関係なく敬語で黙りこくってしまう。

典型的なオタク気質だから興味のないことにはどう会話を続ければいいのか分からないし、黙って突っ立っているような人間が近くにいても気持ち悪いだろうからら席を外してしまう。

その場で恥を忍んで聞くような勇気もないし、家に帰って学習する気力もない。

 

最近気づいたことは、いや薄々感じてはいたものの、もう逃げられないと悟ったことは私にとって人との関係は優越感が全て、ということだ。

人と話すにも、聞くにも、何かをしてあげるのにも、どこかで人を見下していないとままならない。

優越感とは余裕であって自信であって、自己肯定感なのだ。

日常生活の中で自分を否定し続ける私は、そうでもしないと人と関わるような余裕など持てるはずもない。

仲良くなる人に話が面白いねと言われるが、それは仮初め。

相手から感じた優越感にすがって日頃の鬱憤を晴らしているにすぎない。

なんてみすぼらしくて、浅ましいんだろう。

それは相手と向き合って話をしているんじゃない、自分を見つめているだけなんだから。

 

たまに、私のことを面白がって仲良くしてくれる人がいる。

これは先ほど示した上の人の話だ。

私にはどう考えても釣り合わないような生まれ、もしくはセンスに溢れていて輝いて見える人。

そういう人は誰に対しても同じように話せる。

きっと私のように日々自分を痛めつけるような低俗な生活はしてないんだと思う。

それは元々の才能なのかその人の努力の証なのか分からないけれど、そこら辺の人とは吸う空気すら違う気がする。

そういう人と他の人たちを交えて会話をすると本当にびっくりする。

誰に対しても、と言ったがそれは大御所に対しても同じなのだ。

軽い口調で、いろんな話題を次々投げかけテンポよく会話を進めていく。

ここぞというタイミングで相槌をうち、ナチュラルに相手を持ち上げ、だいぶ態とらしくリアクションをする。

これは側から見ているとご機嫌とりに必死なように見えてなんとも言えない気持ちにもなるのだが、その会話の渦の中にいるととても自然で全く不快な気持ちにはならないのだ。

なぜこんなことを当たり前のようにできてしまうのか、それはどこで習ってきたのか、または盗んできたのか。

私はそんなこと絶対にできない、相手を持ち上げたり、バカみたいなリアクションをしたり皆んながいる前で媚びを売りに駆け寄ったりできない。

どうして、私とあの人ではこんなにも違うのだろう....。

 

あぁまただ、また私は人を見下した。

これだ、私が変わらなければいけない最も大きな点はこれなんだ。

人を観察する目も、分析する頭もあるのに、どこかでいつも人を見下している。

羨ましく思うのに、見栄や外聞を気にして「私には関係ない気にしない、そんな私がかっこいい」と思ってしまう。

馬鹿だ、どちらが正しいかなんて最初から分かっているはずなのに。

ストッパーをかけて、どこかで自分に保険をかけているんだ。

いつも言い訳を用意している、失敗した時の為にこうだからできなかったという理由を常にどこかに保管しているんだ。

馬鹿らしい、そもそも守りに入り続けていれば失敗だっておこらないのに。

それよりももっとアクティブに動けば失敗から学ぶことのほうがもっと多いはずなのに。

分かっているのに、どうして私は変わらないままなんだろう。

 

 

 

私は常に孤独を感じながら生きている。

それは社会がそうしたんじゃない、自分から人と距離を置いたんだ。

人と関わる時間が恐ろしくて、また嫌われてしまうんじゃないかって思って、最初から関わらない方向に持っていった。

それはとても心地のよいものだったけど、人と関わらなければ関わらないほど私は人としての機能を衰えさせていったような気がしている、それも自ら。

何かを記憶し言葉にすること。

感じたことを体で表現すること。

何かを読みながら息をすること。

私を構成する細胞の1つ1つが日々を追うごとに死滅していく。

自ら選んだ孤独の中で、高まっていく内圧に何かが殺されていく。

そんな恐怖を初めて味わった時、私はようやく理解した。

「人は1人じゃ生きられない」という垢にまみれたくさい言葉の意味を。

 

人は1人では生きていけない。

そう、人として生きていくには1人ではダメなのだ。

誰かとコミュニケーションをとり、干渉し合うことで初めて人としての機能を宿す。

きっと何気ない接触のうちに数知れぬほどの神経を働かせている。

人を知りで己を知り、人としての自分を育てていく。

もしかしたら、私はまだ人としての成長の途中なのかもしれない。

不器用で、人と関わらないように生きてきたから、まだ成長段階の途中で足踏みしている最中なのかもしれない。

 

それならば、私の欠点と思って疑わなかった部分のいくつかも、乗り越えていけるのかもしれない。

羨ましいと思うことを行動に移していけるかもしれないし、誰かの良いところを盗んで自分の成長の糧にできるかもしれない。

いやできるんだ、するんだ、他の誰でもない私がこの手で。

 

孤独は人を獣に変える。

恐ろしいことに、それを知っているのは真に孤独を味わった人間だけなのだ。

不登校、引きこもり、ニート、それらは社会不安と称され疎まれる。

気持ち悪いと隔離したくなる気持ちも、苛立ちを覚える感覚も私には痛いほど理解できる。

その感情がなければ、社会は成り立たないし崩壊してしまうから、大事にしてほしいとは思う。

でも、できることなら知ってほしい。

そういう人たちが何と戦っているのか、どんな気持ちで窓辺で降る雪を眺めているのかを。

新しい朝を乗り越える恐怖と、過去を振り返る苦悩を。

日々獣へと変わっていく自分と向き合えない出来損ない。

ループする感情、ままならない生活、抜け出しだくてもがき続けている。

 

そしてどうか知ってほしい。

私たちは誰でもその負の連鎖に陥る可能性を秘めているということを。

誰しもが胸の奥に爆弾を抱えて生きているということをどうか忘れないでほしい。

私は常々思うのだ、どうして自分もそうなる可能性があるのに、そういう人たちに冷たく当たれるのか。

そうなりたくないという強い意志が裏返って強い否定に繋がってしまうのは理解できる。

でも、自分がそうなった時のことをほんの少しでも想像できるのだろうか?

その時冷たくされて正常でいられるのだろうか?

私はきっと無理だ、というか無理だった。

偽善だと分かっているけれど、自分がそうされたくないのなら人にもそうするべきではない。

人と共に、人として生きるのならば。

 

 

結局、何が言いたいのか分からなくなってしまった。

朝のコーヒーを飲んだ後パッと思いついたままに書き始めたらもうだいぶ時間も経ってしまった。

窓からは上の階から溶けて落ちてくる雪がたまに見えるばかりだ。

またすぐ出なければいけないのに、何をしていたんだろう。

つまり私は、どうしたいんだろう。

人として成長し続けたいけれど、悲しい思いをできるだけしたくないしさせたくない。

目の前の相手との一瞬一瞬を大切にして尊敬していたい。

そして願わくば、私の将来即ち仕事に繋げられたら.....。

 

あぁやはり私は卑しくて欲深い獣だ。