遠く
遠く、どこからか煙の匂いがした。
畑で草木を焼く匂いだ。
東京のマンションのベランダで、また夢を見ていた。
気持ちのいい夕方。
夕日が家々をうつし、影を落とす。
その美しさは日々の悲しみを全て洗い落としてくれるほどで、私は何度もあの風景に生かされていた。
あぁ、帰りたい、あの日々に。
この美しさ全てが私のものだと、胸を張って言えたあの日々に。
確かめるように深く息を吸い、空に向けて吐き出すと白く色づいていた。
私はこの人生であと何度、こんな風に悲しみに暮れるんだろうか。
そんな風に考えたら無性にコーヒーが飲みたくなった。
土曜日の夜、泥酔。
お花ちゃんとのデートが上手くいかず、後のLINEは脈なしとしか思えない内容だった。
まるで魂の抜けたような私を家まで引っ張っていって一緒にお酒を飲んでくれたキャットに、私は「私って第2夫人なの?」と禁句を放ってしまった。
まるであの日のように、彼は静かに本音を発する。
「好きなのは、彼女」
たったそれだけの言葉が、とても怖かった。
冷徹な、そして猛烈な恐怖。
まるで彼女という存在を浮き立たせるような、想像させるその言葉。
その言葉は、一夜たっても二夜たっても消えやしない。
どれだけ気を紛らわせようとしても、嫌でも思い出してしまう。
彼に愛される女のことを。
最近、結婚の文字を見るのが辛い。
このまま彼といたとして、いつか彼は彼女と結婚するのだろう。
それを私は、どんな顔で知るのだろうか。
簡単に想像できてしまうのがとんでもなく恐ろしい、
怖い、ただ怖い。
いつか来る衝撃に、ただただ震えている。
何をしても治らないこの震えを、どうやって紛らわせばいい。
私が、彼を嫌いになればいいのか。
それは、きっと未来永劫無理だ。
ならばこれは、未来永劫続く痛み。
胸を貫くほどの痛み。
私は一体、どうやって生きていけばいいのだろうか。
チョコレートを口に含みコーヒーで流し込む。
私の今の唯一の癒しはこれだけだ。
別れを、意識しよう。
私たちは有限の関係なのだと、忘れてはいけない。
限りある時を、大切に。
今はこんなことしかできないけれど、大丈夫、きっと私は幸せになれる。
きっといつだって、煙の匂いが鼻をかすめる。